2018年2月24日土曜日

本能

食に纏わるブログを巡っていると、エントリの記述内容を主観的視点から非難するコメントを目にします。場合によってはブロガー本人の人格攻撃へとエスカレートすることも珍しくありません。特に、飲食店の所感、評価が記されたエントリで、該内容が飲食店にとって批判ネガティブな場合、攻撃的なコメントが寄せられる確率は一層高まるように感じます。

この攻撃的なコメントの由来について少し考えてみます。

まず、具体例を以下に設定します。

あるブロガーが、
大通り沿いにあるよさ気に見える寿司屋を訪問し、ランチではあるもののそれなりの価格のおまかせを注文。
暖房が効いていなかったり、玉子焼きが冷たい、赤身の筋、マグロや雲丹が少し匂う等と記述。
寿司職人の話が聞き取り辛く、調理衣に清潔感が欠けていると指摘。
その一方で、店内に飾られている生花、鰹の漬け、ノドグロの炙り、干瓢巻き等は良評価。
といった内容でエントリを公開。で、
自分も行ったがそんなことはなかった。
店主の話は上手くはないが真摯な態度だった。
調理衣も新しくパリッとしていたしネタも決して悪くなかった。
どう感じようが勝手だが不快である
批判するコメントが寄せられていました。

この応答からどちらが事実かを判断することは不毛です。共にほぼ主観による評価ですから。第三者は、両評価を等距離に位置付けるべきです。エントリ本文中に写真が掲載されている分、信頼性がまったく同じというわけではありませんが、まぁ、一定程度信頼できる一方、同程度に信頼できないということです。

第三者視点に立ってコメントするならば、コメントは、”自分が行った時はそんなことはなかった。+[その説明]”までに留まるはずです。自分が見ている空の青さと、他人が見ている空の青さが同じとは限りませんから。

では、自身は高評価とした店に対する他者からの低評価が、
どう感じようが勝手だが不快である”
と口撃に駆り立てせしめるのはなぜしょうか。

ここで前提として、コメント者が当該寿司店となんら利害関係がない場合についてであると限定しておきます。

これまで、そういった場面に遭遇した際、
[自身が高評価とした店が他者から低評価を受ける]
=[自身の評価能力の否定]
引いては
=[自身の価値観の否定、自身の否定]
に繋がると受け止められそれが強い反発となって口撃に至るのでは、と思料していました。

しかしながら先日放送された
モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「悪は根絶できるのか?」
の中で興味深い実験がありました。
人は生まれつき差別の意識を持っている
という考察です。

イェール大学のカレン・ウィン教授による実験です。赤ちゃんの前で、縫いぐるみAがクラッカー大好き、いんげん嫌い、縫いぐるみBがクラッカー嫌い、いんげん大好きという寸劇を見せた後、好みの縫いぐるみをA、B、どちらか選ばせるものでした。ほとんどの赤ちゃんは自分の好みと同じ縫いぐるみを選ぶだけでなく、好みの異なる縫いぐるみを罰したがる傾向も認められるようです。この選好は1歳以下の赤ちゃんで既に見られ、自分と同じ/異なる考えの持ち主への対応は幼いときから決まっている、とのこと。

正に先述のブログコメントの事例にも符号する話ではないかと思った次第です。
 
ヒトの
同調性と排他性は乳児の頃から生来の本能であるかの如く備わっている、という見方は手放しで鵜呑みにはできない部分を感じています。研究の更なる進展を期待しつつ、ただ、同調性と排他性がヒト生来の本能によるものとすると、なかなか厄介な話です。

”口撃的なコメントを送る”という具体的な行動に至らずとも、本能として、自らと同質なものを持つ相手には同調し、異質な相手には排他的な感情を抱くということですから。理屈ではなく。

この感情が、成長に伴って醸成された自意識、価値観という高次の意識からの発露である場合、教育による是正が期待できると考えます。しかしながら、これが生来の本能からの発露の場合、理性で感情を抑制するということになります。該感情に起因する行動を実行に移すことは抑えられるかもしれませんが、感情の発生を絶やすことはできません。

正当性や合理性に優先して、
自らと同質なものを持つ相手には好意を、異質な相手には不快感を抱く
そういった感情が本能により自然発生的に生まれてしまうというのも、得も言われぬ手詰まり感を抱かせます。

0 件のコメント:

コメントを投稿