2016年11月5日土曜日

手段

もうはるか大昔の話です。

小学校の頃か中学校か、いずれにせよ初等教育課程の社会科で、仏教を日本全国に広めるために聖武天皇が東大寺、国分寺を建立した、との知識を得ました。で、その目的は鎮護国家の思想に基づくものであったと。

国家の安寧というか内政の安定のためのツールとして仏教を利用したということです。社会の不満や不安を抑制するため、武力ではなくソフトパワーである、宗教の政治利用によって人心の掌握を図った、とも言えます。

当時、仏教によって社会が安定化する理屈が理解できないというか、腑に落ちませんでした。教師に質問もしませんでしたし。今であれば、小一時間は質問すると思いますが...

それはさておき、古今東西、統治者の威を借る寺院や僧侶が大きな権勢を振るい、良くも悪くも政治に関与してきた史実は枚挙に暇がありません。今日でも、宗教の政治利用を疑わせる、推察させる事案を挙げることは難しくありませんが、憲法の定める政教分離の下、少なくともおおっぴらな利用認められていません

又、時折散見されますが、皇族や皇室の政治利用に関する事案については厳しく指弾されています。東京五輪招致の際、首相官邸が宮内庁に高円宮妃久子さまのIOC総会参加を要請した件などは耳新しいところです。
「政治利用」とされている過去の事例
このような思想、信条、意識、価値観といった個人の主観に働きかけ得る事物を政治に利用することは慎まれるべきであって、現行憲法はこれを認めていない、と理解しています。
信仰、崇拝、尊崇を通じて政治が個人の内面に干渉すべきではない、ということです。

では、翻ってスポーツはどうでしょうか。ここで指すスポーツとは参加者としてのスポーツではなく、観戦者としてのスポーツを意味します。

スポーツの意義については例えば、
スポーツ振興基本計画 1総論
の中に
スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みという意義を有しており、競技スポーツに打ち込む競技者のひたむきな姿は、国民のスポーツへの関心を高め、国民に夢や感動を与えるなど、活力ある健全な社会の形成にも貢献するものである
とあります。勇気、感動、頑張る姿、可能性、ひたむき、共感、夢、成長、人間性、努力、真摯、極める、忍耐、不屈、精神力、大和魂、サムライ... そういったキーワードを用いて、スポーツの与えるもの、見せるものについて語られることが非常に多いように見受けられるかと。思いっきり個人の内面に働きかけているわけです。

本エントリでは、このスポーツの意義について云々する意図は毛頭ないことは明言しておきます。

言及する関心は、個人の内面に働きかけ得るスポーツの政治利用にあります。以前からそういった印象を抱いていたのですが、東京五輪の競技施設に纏わる一連の報道を見聞してより一層その思いが強まります。巨額な予算が絡むからでしょうか。

現役選手の発言の背景にある競技団体の意図、さらにその後ろ盾となるスポーツ行政に影響力を持つセンセイ...そんな構図が想起されます。以前のエントリでも記しましたが、やはりセンセイとしては墓標を残したいのでしょうか。或いは、負の遺産にできるだけ多くの予算を費消して関連企業に恩を売っておきたいのか。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
と言いますが、センセイは死してハコモノ(=債務)を残す、ということかもしれません。

東京五輪、即ちスポーツを理由とした公費の費消も含め、スポーツと政治の関係は政教分離前の宗教と政治の関係を想像させます。政教分離以降かつての政治における宗教の役割をスポーツが担っているんじゃないかと。

確かに、スポーツの政治利用は憲法で制限されていません。だからといって、スポーツの絶対的正当性を前提とした、あからさまな政治利用というのも違和感を感じる次第です。

上述したようにスポーツの観戦は明らかに個人の主観に働きかけます。例えば、良くも悪くも国威発揚を目的としての利用は至極当然のように行われています。即ち、一般庶民の印象操作や煽動といった情宣活動の有用な手段とみて間違いないわけですが、その利用は全く規制されていません。

政治とスポーツの更なる強固な結びつきは、その延長にスポーツの国家神道化をも勘ぐらせます。国家、組織、国民が本分を知り、自律機能を作用させる、即ち賢くなればいいのでしょうが、それもなかなか難しい話かと。暴走を憂慮してしまいます。

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