2016年10月29日土曜日

須要

かつて、名古屋、及びその近郊においてエビ天の天とじ丼を以って天丼と称してきた、とみています。つまり、海老の他、メゴチ、鱚、烏賊、穴子等の魚介類に加え、茄子、南瓜、玉葱といった野菜の天ぷらを丼ツユに浸して丼飯に載せた、今日の天丼は当地では一般的ではなかったと。

記憶が定かではありませんが、そういった天丼を始めて口にしたのは二十歳前後で愛知県外でした。それまでは天丼即ち、エビ天の天とじ丼でした。ですから、何かで見聞きした、カラッと揚がったサクサクの天ぷらを頂いた天丼というものは想像だにしませんでした。丼ツユを吸った衣が溶き卵と渾然となった天丼しか知りませんでしたから。

いわゆる全国共通の天丼を始めて目にした際には、
”タレを飯にまぶしてその上に天ぷらを載せただけじゃないか”
というのが素直な印象でした。飯と天ぷらの一体感のようなものを感じなかったのです。

当地では歴史の浅い、専門の蕎麦屋、セルフの讃岐うどんチェーンの勢力拡大、昔ながらのきしめん屋の衰退に伴い、いつしか天とじ丼は天丼として当たり前ではなくなってしまったように思っています。どちらが秀でているかを云々するつもりは毛頭ありません。

そう言えば光村なんかは昔はどうだったんでしょうか。あそこはあそこでかき揚げ丼などは丼ツユを割としっかり吸わせていて、カラッ、サクサクという丼とは一線を画していたような覚えがありますが。

それはともかく、名古屋市東区出来町という正にザ・名古屋に位置するきしめん屋を訪れた方が撮影された店内お品書き、及び、召し上がられた天とじ丼の図を見て思った処を少し。

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天丼と天とじ丼が併記してあります。各々に”上”が設けられているのも気になりますがそれはさておきます。つまり、ザ・名古屋のきしめん屋で天丼=天とじ丼ではなく、両者が区別されているわけです。前のエントリで守山区、中区鶴舞、西区、更には隣接の郊外でも天丼=エビ天とじ丼と扱われていることを確認しているのですが。両者を区別しているきしめん屋がザ・名古屋の場所に位置していたとは...軽く驚きました。ま、どうでもいいことですが。

こうなると、上記天丼がいわゆる天丼なのか否か興味を引きます。或いは、単に玉子でとじないエビ天丼なんでしょうか。はたまた、鱚天や野菜天の入ったいわゆる天丼なのか...

ところで、下図は上記ブロガーの方が注文された天とじ丼ときしめん(小)の配膳写真です。

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ここで仮に、きしめんを注文せず丼物のみを頼んでいたとしたら、赤だし等、汁物もなくお茶と共に掻っ込むことになったのだろうか、ふとそんな思いが過りました。淋しいなぁと。

寿司屋で海鮮丼や散らし寿司を頼めば味噌汁がつきます。中華料理店の炒飯には通常中華スープ?、ラーメンスープ?がついてきます。鰻屋だってうな丼を頼めば吸い物が。肝吸いか否かは別ですが。牛丼チェーン、カツ丼チェーンでは味噌汁がついてきたりオプションだったり。これはまぁ、ファストフードのチェーンですから致し方ないかもしれません。

微妙なのはオムライスで洋食屋、喫茶店、定食屋、専門店と供される店も様々ですが、スープも店によってついたり、つかなかったりです。個人的には水やお茶と共にオムライスを口に運ぶのも物足りなさを感じます。ただ、スープがつかない店でも食後のコーヒーがセットで出されたりしますから、オムライスにはスープは不要という考え方かもしれません。個人的にはコーヒーよりスープを優先して頂きたいのですが。例えインスタントであっても。オムライスを注文して眼前にそのひと皿だけが配膳されると、旨いでオムライスであっても軽く落胆します。おそらく一汁三菜に近い状態を期待しているのでしょう。水やお茶、コーヒーは一汁には含まれませんから。

カレーは明確です。水と共に食べることになっているかと。しかしながら、自分としてはカレーでもスープが欲しいところです。味噌汁でも構いませんけど。ナポリタン定食?イタリア定食?と称されるもの、焼きそば定食、お好み焼き定食というものがあっていずれも味噌汁がつくわけですから、カレーに味噌汁でも何ら可怪しくないと考えています。

でですね、上記のようなうどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物を頼む際には必ずカツ丼とミニきしめん、ミニ天丼とかけそば、といったセットを注文してきました。丼物のみを単品で注文したことは全く記憶にありません。丼物単品のみを頼んだ時、汁物無しでそれだけ配膳されるのでしょうか。

うどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物単品のみを注文した場合にはお茶と共に丼を口に運ぶのが真っ当なのか否か、よく判りません。お茶をすすりながらというのも、物足りないというかか物悲しい気がしてなりません。

2016年10月25日火曜日

因習(2)

電通で起こった、女性新人社員の自殺事件を受け、会社側は
”月間の時間外労働時間の上限を65時間にする”
”社内全館を午後10時~翌日午前5時、毎日消灯する”
といった対応をを公表しました。ウェブサイトは今日も平常運転です。全く無風で凪状態です。CSRの姿勢は微動だにしておりません。

消灯した図です。午後10時に全館を消灯して社員の退社を促す、とのこと。

で、朝五時には明かりつきまくりと...退社してるんでしょうか。午後10時~翌日午前5時は、消灯下で仕事、社外で仕事、百歩譲って仮眠、といった処かもしれません。正に因習です。

現実的に毎日午後10時~翌日午前5時の間、業務停止など該企業で可能なんでしょうか。少し考えてみます。

該時間帯の業務が必須であるならば、当然翌日、或いは関係会社や外部の委託会社にそのシワ寄せが生まれます。出力を維持するには減じた投入資源を他で補う必要があるわけです。翌日への繰延や外注は通常、利益率を低下させます。では利益率を保とうとすれば、減じた投入資源に見合った出力となり、これは売上の減少を意味します。

営利企業として果たして利益率の低下、売上の減少を容認できるのか、といった話です。経営側、株主がそういった状態に甘んじるとは思えないのですが。過去に過労死があっても、労基署から是正勧告があっても、過重労働が受け継がれてきています。それこそが電通の体質、倫理基準であり因習なわけです。

それでは、毎日午後10時~翌日午前5時の間業務が適正に停止されても尚、これまでの財務状況が維持できたとします。これは即ち生産性の向上にほかなりませんが、これは換言すれば”元々しなくてもいいことを削った”、”穴を掘って埋める仕事をやめた”に過ぎません。

それは、人一人亡くなくならないと実現できない話ではないだろうと。つまり、是正の機会はこれまでも十分あったと考えます。過去の事件の時も、労基署からの是正勧告の際も...

組織の防衛本能、営利企業の飽くなき利益追求姿勢、時には変わらぬ伝統と賞賛される因習の、避け難い剛直性、普遍性に危うさを感じます。諦念せざるを得ないのでしょうか。

2016年10月21日金曜日

侵食

"神の雫"というワインを題材にした漫画が雑誌モーニング(講談社)で連載中です。

作品中に登場するワインの味わいを様々な絵と言葉で表現されても、バカ舌には共感も思い描くことも全くできません。めんどくさい漫画です。

で、タイアップ広告ってやつでしょうか。今週号(2016.11.3)で該漫画の作者がレギュラーソリュブルコーヒーと称されるインスタントコーヒーの味わいについて表現した漫画が掲載されています。クリームブリュレやガトーショコラとの取り合わせとか...

”料理の鉄人”で名を馳せた坂井宏行氏はネスカフェのボトルコーヒーを推しています。
「ラ・ロシェル」坂井宏行シェフが「ネスカフェ」を選ぶ理由
いや、ま、どうでもいいんですけど。自身のお店で提供されているんでしょうか...提供されていました。
これなら、私の店の料理に遜色のないアイスコーヒーです。コクが深いので、フルーツのペーストや蜂蜜で煮た生姜などを加えてもバランスがいい。爽やかでおいしいですよ
えーと、このラ・ロシェルという店は勿論存じませんが、供される料理はネスカフェのアイスコーヒーに見合ったもの、と理解すればいいのでしょうか。

こういった類の事例は枚挙に暇がありません。
「老舗の逸品 神田まつや監修 鴨南ばんそば」
祇園さゝ木 宇治抹茶ミルクレープ
イタリアンの巨匠落合務氏監修の本格的イタリアンスイーツのセット
カップ麺だったり冷凍ケーキだったり、更にはマンゴープリンの素まで...
1個約90円 辻口博啓監修ごろっと果実のマンゴープリン箱×32個
クーポン業者の商材やバルクで格安販売されているわけです。自身の名前がクーポン販売されていたり、まとめ売りされていることに抵抗はないのでしょうか。抵抗はないのでしょうか。 躍起になるほどの話でもなく、目くじら立ててもしょうがないのかもしれませんが。

食品に限らず、著名人の名を冠した製品には多くの場合”監修”の語で繋がれています。

監修とは、
著述・編集などを監督すること。また、その人。
であって、下リンクは一例です。
『猿田彦珈琲』監修とはどういう意味ですか?

スペシャルティーコーヒー専門店 猿田彦珈琲の知見からアドバイスを受けながら、共同で豆のブレンドから製法まで見直して生まれたコーヒーという意味です。
アドバイスを受けたことが監修であって、よく知りませんが高評価なんであろう猿田彦珈琲を再現した、近づけたということではないようです。全く言及していませんから。

権威商法とでも呼べばいいんでしょうか、監修商品とは商品の付加価値を嵩上げするために単に名前の威を借りたに過ぎない、と捉えています。

余りに氾濫する監修商品を目にしていると、料理携わる人物の目指す姿は、実は名前貸しなんじゃないかとすら思えてきます。斜めに見すぎでしょうか。

さて、ちょっと西友に行って見切り売りされているヤマザキのチョコレートケーキでも買ってこようかと、購買意欲を煽られたわけです。賞味期限の切れた、VドラッグのバローPBコーヒーと共にいただきます。

視点

以前のエントリ、退治

「ソース増量に、なんで100円取るのか。けち臭い店だなあ」と要は、ソース増量の対価として100円は適当かどうかということです。明らかに高いですよね。これは、お店のソース増量に対する拒否の姿勢です。
といったコメントを頂きました。そういった視点もあるのかと少し考えてみました。該エントリはルキウスさんのエントリ
「ソース多め人間」撃退さる

に端を発したものです。
[あんかけスパ屋で「ソース多め」を要求し、”ソース増量100円です”と応答された際、じゃあいいです”踵を返すように要求を撤回する
このことの適否を問うもの、と受け止めました。で、まずソース増量100円ついてですが、その妥当性は全く考えていません。100円が高ければ50円ならいいのか、10円でも高いのか...無料が当然とか、そういった価格以前の話と捉えています。

無料のつもりで頼むが有料と分かって取り消す”と一般化しています金額の多寡ではなく、10円だってそれならいいですと取り消していたかもしれませんし。


つまり、明示されていないことはあくまで客側のお願い、要求、若しくは我儘であって、その応諾・拒否と共に、相応の対価を求め自由も店側にある、という考え方を根本に置いています。

ランチサービスとして麺増量無料、或いは、ご飯無料というラーメン店がある一方、普通に有料の店もあるわけです。いずれも表示があればそれが店の姿勢と受け止めます。それ以上でもそれ以下でもありません。

ココイチに入って、ご飯やカレーが〇〇gで☓☓円追加とか、辛さ〇〇倍で追加☓☓円ときっちり加算されても、表示されているわけですから、”ああ、そうですか”と。納得できれば注文し、不満があれば注文しない、特段一方に偏った思いはありません。(別の理由で行かないんですが...)

上述のあんかけスパ屋でも、端から”ソース増量には追加料金と頂きます”との表示があれば、そういった要望は出なかったであろうことは十分推測できます。店の負担は大したことないはず、といった客側の価値観で、明示されていない要望に無料を期待するというのもちょっと違うような気がします。
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ここまで記しておいてなんですが、ふと気になって調べてみました。

と、メニューに明示してあるわけです。

表記があるにも拘らず、おそらく店側が客との齟齬を防ぐために”ソース増量100円ですが”と念を押したのが実のところと思料します。むしろ誠実な店とも言えるのではないでしょうか。

以降、牛丼屋のツユだく、マクドナルドの特殊オーダーサブウェイの野菜増量、或いは、御飯の減量とか、食べられない、嫌いな食材を除いてもらう等、他の明示されていないオプションとも比較してみようと思ったのですが...
メニューをよく見て注文しろ
この言葉に尽きてしまいました。

尚、頂いたコメント中に、店に対して損して得とれ”といった指摘がありましたが、私はどうでもいい、といった見方です。それで営業不振になったとしても関知しない話ですから。

2016年10月11日火曜日

因習

因習なんでしょう。
「死んでしまいたい」過労自殺した電通の新入社員 悲痛な叫び
それが広告代理店という業態によるものか、電通という一企業に伝承され続けてきたものかは存じませんが。

同日(10/07)の電通報と電通ウェブサイトのCSR。
キング・カズらが新テレビCMに!「キリンファイア」、焦がし焼き製法でフルリニューアル
知らぬ存ぜぬの方々。

人権の尊重
電通グループは、広告をはじめ事業活動に関わるすべてのコミュニケーション活動を、人権の観点からも豊かなものにしたいと考えています。そのため、社員一人一人が人権について正しい知識を身につけて理解を深め、その知見を業務活動に生かしていくことを目指しており、電通グループ全体で各種の社員研修を定期的に実施しています。また社員の能力発揮のためにも、ハラスメントの防止を徹底し、社員の人権を守ることも、重要なテーマであると考えています。
労働環境の整備
サステナブルな社会を実現するには、多様な社員の能力を最大限に引き出して活用することが欠かせません。「人が財産」の電通では、社員が高いモラルとモチベーションを持ち、能動的に仕事に取り組める環境を整えることが、極めて重要な課題であると考えています。そのため、能力開発、ワーク・ライフ・バランス、そして健康・安全管理体制の整備の観点などから、きめ細かい対応を施してます。
(太字は本エントリで修飾)
”人権について正しい知識を身につけて理解を深め、その知見を業務活動に生かしていくことを目指して”いく過程での避け得ない事故だったということでしょうか。ああそうですか。

この悲報を目にした時、スタンフォード監獄実験を想起しました。

電通という舞台装置の上で、人々は電通マンという役を担っていたわけです。各々、管理職、部長、上司、マネージャ、ディレクタ、更には新入社員と...率先して、或いは強いられて、舞台を下りない限り配役を演じ続けることになります。

特定個人ではなく、脈々と継承されてきた電通イズムを根幹に、電通の管理職としては至極当然言動が今回のような痛ましい結果を引き起こしたとみています。おそらく、自分達もそうだったとか、育、育成の一環といった名の下に...

上記スタンフォード監獄実験では、看守でも受刑者でもない普通の人々が被験者とされ、看守役、受刑者役を演じさせられました。これは、”受刑者や被疑者・被告人などを拘禁する”という監獄本来の目的を果たすものではありません。つまり、看守役、受刑者役各々の言動に意味はないわけです。当然ですが実験であってフリですから、虚構の場です

そういった場では、被験者自らがそれまでに見聞した情報を元に役を演じるであろうことは容易に想像できます。その情報はおそらく映画、小説といったフィクションが殆どではないでしょうか。ノンフィクションの情報が皆無というわけではないでしょうが、フィクションから得た看守と受刑者についての先入観が被験者の演じる各々の言動を発現させているとみるのが妥当な処かと。

つまり、該実験では、イメージが脹らんだ、おそらく過激にエスカレートした看守像、受刑者像が演じられていた、ということです。

翻って、広告業界の雄である電通は、と考えれば、まぁ、広告代理店という業務がそもそも虚業なんじゃないかと思料する次第です。

広告代理店の業態と言えば、媒体の広告枠を顧客に販売する手数料ビジネスに端を発しますが、今日では広告の制作、マーケティング・リサーチ、イベントやキャンペーンの企画運営等も一事業となっています。まぁ、煽動、プロパガンダに関わる一切を請け負う仕事といったところでしょうか。自社の広告、或いは、イベントやキャンペーンの企画といった無形物がいかに創造的で効果的であるかの如く矯飾し、付加価値を高めるというか元々の価値に下駄を履かせ口銭を稼ぐ、といった処が率直な印象です。(個人の感想です。認知には個人差があります。)

で、広告やイベント、キャンペーンといった成果物の創出において、果たして設計、生産といった概念が含まれているのか、甚だ疑問です。顧客の要求、─これが往々にしてデスマーチの原因であるのは確かです─これを満たすことを目的に達成し得る手段を考案し、成果物として創出していく、その際、投入資源(ヒト、モノ、カネ)の最小化を図るのは事業会社として極当たり前の行動と考えます。

設計の根幹は恣意や感性ではなく論理性、合理性であるべきであって、又、効率性を考慮しない生産などあり得ません。

しかしながら、現実には、
打ち合わせは、素晴らしいアイディアのためには必要なもの。全員出席を求め悶絶8時間マラソン!
「てっぺん」(深夜0時)を超えてからの会議がカッコイイ
ワシも若い頃は残業が多かった、だからお前もできるはずだ
あるクライアントさんの担当者が異動することになり、送別会をするとなれば、もう毎晩夜中12時から部内で企画会議です。
といった話がある、(あった)ようです。理不尽この上ないぁと。

この体質は是正できるのか、についてですが少なくとも自力更生は困難です。組織内のルールとして、法令順守の名の下、労働時間の規制は徹底できたとしても、”理不尽な過重労働、パワハラの否定”といった意識改革は不可能でしょう。それが因習というものです。

今後、過重労働によるいたましい自死の再発防止策が図られたとしても、あくまで本件を受けての”仕方なく”の措置であって自発的なものではありません。ルールによる強制力で抑制するに過ぎず、本質的な過重労働の否定に至るものでは決してないのは明らかです。

児童虐待が負の連鎖として受け継がれる傾向にあるように、企業の悪しき体質も容易には排除できないのかもしれません。私企業において組織防衛は本能であって、これまでの理不尽な環境を当然と受け入れ、継承してきた集団では自己変革は不可能です。華々しい過去との決別や自己否定を意味しますから。

電通の意向を忖度しない外部委員会による調査と監査は勿論必須ですが、そうであっても根本的な変革には世代交代は欠くべからざる要件であり、相当に時間を要するのは間違いありません。
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ところで、本事件では月100時間を超える残業、即ち
長時間労働が自死のきっかけとされています。実際には、対外的な、記録にある残業が100時間であって、実質はその程度でではなかったであろうことは彼女のツイートから容易に類推できます。勿論、この残業が彼女を精神的に追い込んだのは間違いありませんが、時間という定量的な部分以上にという定性的な部分こそ大きな原因があったのでは、と推量しています。

100時間を超える残業は確かに長期間労働です。(それ以上の部分については状況証拠のみですから言及しません。)しかしながら、たとえ僅かであっても結果に寄与している、目標達成に貢献している、そういった実感が得られていればもう少し違ったんじゃないかと。それさえ押し潰す圧倒的な残業があったと言われればそれまでですが、これは今後調査が進められるべき話です。

上述の監獄実験は、女の生前のツイートから、長時間の”穴を掘って埋める仕事”を連想させたことによります。本件に対し、”100時間程度の残業など過重労働ではない”といった趣旨の意見が非難を呼び、炎上を引き起こしています。一例です。
長谷川秀夫教授「残業100時間超で自殺は情けない」 投稿が炎上、のち謝罪
しかしながら、実は過重労働の時間ではなく、質、即ち精神的な過重労働こそが問題だったのではないかと考えています。
「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」
「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」
といった管理職の言葉からは全く生産的な印象を受けません。
 「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」
勿論、入社一年目の新人が作成した資料など危なっかしくて使えないのは当然です。期待する側がおかしいわけで、そういった部下を使えるように仕立てあげるのが管理職の職務じゃないでしょうか。芽を摘み取ってどうする

これらは結局、労働生産性に繋がる話で、

電通「過労自殺」事件にみる労働生産性の低さ
では、広告代理店という業態を切り捨てています。そういった方向に進むのは避け得ないのでしょうが、旧来からの非効率な業務の放置は動きを加速させます。この動きを押しとどめるには生産性の向上が急務なのは言うまでもないことです。

ただ、それが可能かとなると...現状ですら適正な生産性評価がされていない虚業の業界と思われます。長時間労働の対価云々以前に、労働の質に対する適切な評価、或いは評価可能な業務の指示、この部分を蔑ろにして不毛な業務を強いられれば自虐的閉塞感が生じてしまいます

自ら(の業務)に価値を見出ださせず追い詰める、そういった環境こそが指弾されるべきと考えます。

2016年10月7日金曜日

移行

連日の築地市場の豊洲移転問題に関する報道に辟易しています。
実は、中央市場というものは、もともと必要ない。現在の発達した情報社会では、市場を各地に分散した方が、効率はいい。つまり、地産地消だ

とあるように、”中央市場”の機能が時代にそぐわなくなってきている今、豊洲の新市場に移転する意味がどこまであるのだろうか、と身も蓋もないことを記してみます。だからといって、老朽化が進み、一部アスベストの問題も危惧されていいる築地市場に留まり続けるべき、という論とは勿論異にします。

豊洲市場へのあゆみ
によれば、築地市場の施設老朽化を含めた問題はかなり以前から認識されていて、平成11年に移転へと意見集約され、平成13年に豊洲への移転が決定したとのこと。一方、その間のネットワーク技術、物流技術の発達には目を見張るものがありますし、水産資源を取り巻く環境は様変わりしました。

公共事業では、一旦動き出した計画が撤回、修正されることは稀有なんでしょうが、新しいハコモノで旧態依然とした市場のシステムが温存され続けることに違和感を覚えるわけです。

取引機能の仮想化と産直ネットワークの活用で、より効率的な市場システムへの実現が可能であり、移行すべきと考えます。

暴論を承知で言えば、
e-BayかAmazonに委託しとけ
ということです。楽天やYahoo!はちょっと...ですが。TSUTAYAも任せた図書館の運営がアレですし...

市場の機能は価格が仲介する需要と供給の突き合わせですからネットオークションや証券取引所と理屈は同じです。大きな違いは上市品の品質チェックでしょうか。生鮮食品であるがため鮮度や品質のばらつきが大きく、適正に評価できる目利き(=仲買人)が実物を見て品定めする必要があると。

ただこの辺りも供給者の提供する情報を需要側がどう判断するかの話であり、本気で取り組めば仮想化に対し大きな障害にはならないと考えます。

鮮度や品質に関わる情報の規格化は勿論ですが取引参加者の誠実さこそが要です。市場取引では、供給者はできるだけ高値で売りたい一方、需要家は安値で買いたいわけです。質と量を基に行われるこの突き合わせにおいて、提供される情報が正確でなければならないのは当然です。

しばしば、ネットオークション、ネット通販で”欺かれた!”、”掴まされた!”といった事例を見聞します。後を絶たないと指摘されればそうかもしれません。ただこれは、”B to C(Business-to-consumer)”の事案に比せば、”B to B(Business-to-business)”の事例は少ないとみています。”B to B”において持続的な取引を望む参加者は一旦失墜した信用を取り戻すことは容易ではないことを認識しているはずです。

何より、これまでの食品偽装事例を鑑みれば、リアルの取引が安心を担保する根拠にはならないのは言うまでもないことです。

この信用の価値は、顔が見えない仮想市場こそむしろ高まっていくとみています。仮想市場においては情報が全てで、正確な情報を誠実に提供する取引者が優遇されるという点ではリアルの市場より優っているのではないでしょうか。

勿論、そうは言っても不正な取引は根絶できないとは思います。仮想市場における参加者の自主的な誠実さに頼るのみでは市場での公正な取引に対する信認には心許ないものがあります。

最近でも、”B to C”の場合ですが、
トクホ全製品、成分調査やり直しへ 消費者庁が指示
特定保健用食品に対する今後の品質管理等の徹底について
といった事案があり、事業者の自主性のみを手放しで信用するわけにはいかないと。 

そこで、e-BayやAmazonへの委託となるわけです。公設の市場では産地や品質、鮮度に関わる欺瞞的取引が発覚した場合、法規で規定された範囲内の処分までしか下せません。

悪質な場合は詐欺罪適用もあり得るでしょうが、JAS法、食品衛生法、計量法、景品表示法、不正競争防止法辺りが適用法規かと思います。これが健康に関わる事案となれば行政処分として営業禁止にまで至るでしょうが、食品偽装の多くの場合、行政指導に留まるのが実の処ではないかとみています。行政側としては、徒に経営を圧迫しないという事業者側への配慮も否定できないような気がします。

それに対し、そういった欺瞞的取引へのe-BayやAmazonの対応は、情け容赦ないものであろうと推量致します。共に電子商取引の信認に依拠した私企業です。この信頼性を毀損する行為に対してはグレーの段階での切り捨て疑わしきは退場といった措置で臨むのではないでしょうか。不透明な規約を盾に一方的との指摘があろうとも...

このある意味、独善的で行き過ぎた姿勢で上記二社は電子商取引への信任を堅持してきたと捉えています。

是が非でも外資系IT企業に委託、といった主張をする意図はありませんが、市場というシステムそのものの効率化を図れないかということです。旧来の陳腐化した市場機能をそのまま新しいハコモノに移しても生産性の向上は見込めません。

”困る人がいる”、既得権が損なわれる”、”計画は動き出している”、そういった理由による旧態依然としたシステムの温存は、変化への抵抗であり、新しいもの、異質なものの排除に他なりません。

ハコモノ、ハード部分は著しい技術革新が進んでいる一方で、それらを利用する社会そのものは変わらないなぁと。技術の進歩に相応して社会は賢くなっているのだろうか、依然首は傾いだままです。

2016年10月6日木曜日

退治

ルキウスさんのブログに、
「ソース多め人間」撃退さる
といったエントリがあります。無料が当たり前と思い込んでいるあんかけスパ屋「ソース多め」注文に纏わる話です。

似たような事例を最近耳にしました。

名古屋郊外で、地域振興の一策としてでしょうが、地元商工会主催でスタンプラリーを行っている市があります。該市内で参加事業者の店を廻って台紙にスタンプを集めるという催しです。所定数のスタンプを集めた台紙は、期間終了後に開催される空クジなしの抽選会に抽選権として引換られる仕組みになっています。

この台紙は、新聞の折り込み分(各世帯一枚)に加え、銀行、スーパーといった参加事業所で入手できます。例年ですと、"ご自由にお持ちください"と銀行、スーパー、コンビニに置いてあるこの台紙は瞬時になくなっていました。

一人あたり制限枚数一杯まで台紙を確保しさえすれば、スタンプの押印は無料ですから後は銀行、スーパー、ドラッグストアを廻れば、抽選権を獲得できたわけです。現在一人当たりの制限枚数は7枚のようですが、以前は制限もなかったんじゃないかと。まぁ、何度も並び直せば制限を超えて抽選に参加できるでしょうから制限自体無意味なんでしょうが。

台紙の束を持って抽選会に現れる常連が、総抽選数の中でそれなりに割合を占めてしまっている、といった話も聞いていました。振興に繋がっているとはとても言い難い状況だったんじゃないかと。

ところが、今年度はあちこちで台紙が余りまくっているようです。なぜか?

以前は、無料で、しかも手持ちの台紙全てに同時に押印できたスタンプが、
300円以上のお買い上げ、もしくはご利用をされたレシートにスタンプラリー印を押印してもらい台紙に添付してください
と規程が変更されたことによるものと推測しました。銀行でも台紙は配布するがスタンプの用意はなくなったと。

本来の意図であろう、購買による消費の活性化、振興への参画を促した途端、台紙の余剰が顕著に...

無料でスタンプを獲得できるなら目一杯台紙を集めるが、買い物がスタンプの条件となると一気にトーンダウン...スタンプのために買い物などする気はないということですか。ああそうですか。

冒頭の「ソース多め」に通底するなぁと、そのさもしさに頭が下がる思いです。