2015年10月12日月曜日

狭間

一寸フィクションの読み物について記してみようと思います。

先日、NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」の再放送を何気なく眺めていた時のことです。

山崎豊子氏と言えば、
白い巨塔→大学医学部華麗なる一族
 山陽特殊鋼-倒産
 不毛地帯伊藤忠商事-瀬島龍三
大地の子中国残留孤児
沈まぬ太陽→日本航空-御巣鷹山
運命の人外務省-沖縄密約-西山記者
といった作品が思い浮かぶわけですが、同時に、モデルとなった実在の社会的事件、団体は勿論、個人までもが特定できてしまいます。

作者の構想のもとに作られた虚構の話である小説において、実在の事件、人物を題材にすることは読者に現実感を抱かせるには好適な手法です。

事実や史実、及びそれらに対し読者一般が抱いている先入観、そこに嵌合するように人間的魅力にあふれた虚像をはめ込んでいくと。で、虚実入り混じった、何処までが事実かがにわかに判別できないモザイクができてしまうわけです。

こういった手法は特段珍しくもなく、司馬遼太郎氏、松本清張氏始め、著名な数多の作家が創作に取り入れています。城山三郎、清水一行、高杉良、各氏経済小説の分野では至極当然というか欠くべからざる創作スタイルです。

百田尚樹氏海賊とよばれた男 」、「永遠の0」等が最近の該当例でしょうか。

上記作家らの著作について、勿論否定的評価が皆無ではないとしても、その発行部数から、総じて多くの読者からの支持を得ているのだろう、とみています。

ここで、事実を題材として脚色を加えた虚構の創作について云々するつもりは毛頭ありません。それが小説ですから。

ところが一方で、虚構であることが露見したことにより、激しい非難が浴びせられた読み物もあるわけです。

以前のエントリにも記したのですが、それは例えば「一杯のかけそば」であり、江戸しぐさが記載された道徳の教科書(p.58〜59)を含む江戸しぐさ推奨本です。

前者は上記Wikiに顛末が記され、後者については、
更に最近では、ネットワークを介して伝播している、真偽不明のいい話”にも批判的な目が向けられています。

例えば、
【感動注意】黒人が差別された飛行機に、ぼく、偶然乗ってました!
Facebookはバカばかり
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
といった処でしょうか。ちなみに最近見聞したいい話は、
ファストフードの店員がお金の足りなかった男の子に小さな親切、50倍の恩返しが待っていた。
です。真偽はまだ不明です。

興味深いのは、上述全てが虚構であるにも関わらず、小説のについては風当たりが強くない、ということです。プライバシーの侵害、名誉毀損で関係者との訴訟に発展することはあっても、虚構を理由に非難された事例を知りません。

多くの事実を織り込んだ創作であっても、虚構との指摘がなされないということは、読者は端から虚構、フィクションであることを念頭に読み進めているということなんでしょうか。

読者が冷静で創作の世界に踏み込めないでいるのか、入り込ませるだけのリアリティが作品に欠けているということなのか...

「一杯のかけそば」、「江戸しぐさ」は、実話、事実として受け止められた後、捏造であることが発覚、この裏切られ感が怒りや非難の根源となったのかもしれません。そういう意味で、こちらの方が現実感に優っていたとするのが妥当という見方も、素直に首肯できないでいます。

実は、読み物の信憑性に対する読者の先入観が、創作物の虚構、虚偽といった印象を決定しているようにみえ、であるならばそれはそれで釈然としないものを禁じ得ません。では、作品それ自体の力は一体?、ということです。
というブログエントリ中に佐村河内騒動について触れている部分があり、
――涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった――
とのコメントが発覚時に寄せられていたそうです(伝聞の伝聞ですが)。

まぁ、この類の話かもしれません。虚構と虚偽の狭間は、創作物そのものの評価を左右しかねないわけです。

背景や権威といった周囲の環境によって容易に動かされてしまうこの狭間、危うさ、脆さ、曖昧さについてもう少し理解を進めたい処です。

ところで、上記虚構の読み物で、それが捏造であることが判明して以降も、肯定的に捉える声があります。

例えば、「一杯のかけそば」を「涙のファシズム」と批判する見方がある一方で、江戸しぐさについては、特に公教育関係のサイトからは依然として肯定的な姿勢が窺われたりします。
江戸しぐさ 京都しぐさ(京都市)
マナーアップ推進事業(守谷市)
道徳の時間や総合的な学習の時間などの学習で「江戸しぐさ」を取り上げており、礼儀やおもてなしなどにかかわる学習において取り扱う上では、特に問題はないと考えています。(板橋区教育長)
 歴史的事実として教えるものではなく、礼儀やマナーを考えるきっかけになればと作成した文科省)
ネットワーク上に蔓延るいい話についても、
話の「真偽」は、さほど重要では無い。大切なことは、この話から、なにを受け取るのかだ。
といった旨の意見を見聞します。

史実と確認されていない虚構を道徳学習に採用する...真偽は重要でない...手放しで首肯するには抵抗を覚えます。

この部分について思いを巡らせてみると、その行き着く先には権威主義による管理と被管理といった語が朧気に見えてしまいます。

虚構の物語中に描かれた虚像を道徳、倫理、礼儀といった教育に利用する...広義には人格形成にも影響を及ぼしかねないそういった領域に虚像を挿入していくということです。それは言い換えれば、虚像の摺り込みでもあり素直には受け入れ難いものを感じています。

例えば、
故人の意思(真意の確認が困難)
専門家の意見(十分な理解が困難)
民主主義社会におけるみんな(民意)→(実体が不明)
に類した、虚像の一人歩き、極端には暴走の懸念を払拭できない、ということかもしれません。教育でも政治でも、ある意図の下創りだされた、管理側にとって都合のいい虚像、これが知らぬ間に絶対視され周囲に奉られてしまう、その結果醸成される無思慮な”...でなければならない”空気には反感を抱きます。

上述の「一杯のかけそば」捏造騒動における非難には、欺かれたことに対する怒りと共に、そういった虚像に振り回されたことへの反発も含まれていたのではなかったかと。

しかしながらその一方で、先述の著名な作家による小説に対しては、やはり虚構に対する抵抗は大きくないというか、むしろ虚構であるがゆえに受け入れられているとさえ、見受けられます。

そういった作品は、事実を作者の意図で脚色、歪曲した虚構ではなく、作者の意図を伝えるための創作に事実を織り交ぜている、というのがその理由でしょうか。判り難い話です。

文芸について思う処と共に、いずれ機会があれば記してみます。

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