2015年3月8日日曜日

根絶

川崎中学生殺害事件についての報道に触れると、
南幌町家族殺害事件
永山則夫 封印された鑑定記録”(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
を思い起さずにはいられません。 

加害者少年たちに事件の責任はないとするつもりは断じてありません。ただ、全面的、全ての責任、というか原因を少年たちに求めるのも違うだろうと思うわけです。

それは17、18才で未成年だからという意味ではありません。そういう行為に及んだ根幹に、自らの責に依らない部分があるのではないか、ということです。

”人は氏より育ち”
このことは全くもって正しいと信じています。ただそのような育て方(=生育環境)はどのように決定されてきたのでしょう。やはり、根本には自らが過ごしてきた環境で育まれてきた価値観、認識を基に、それを肯定し、類似した環境を用意してしまうということではないでしょうか。

確たる論拠、統計的な調査結果も持ちあわせていませんが...

同根に見える事件を時折見聞します。その環境が意図せずとも潜在的に代々連鎖しているとしたら...生物的な遺伝ではなく、親から子、そして孫へと受け継がれてしまう心理的な遺伝であるならば、抗えない無力感を抱いてしまいます。

子は親を選べませんが、その親もまた自身が育った環境を選んだわけではないのです。そういった印象が単に一人歩きしているに過ぎないことを願っています。
いずれにせよ、社会全体がもう少し賢くなるべきかと思うわけです。個性、個人の意思が尊重されなければならないのは理解していますが、継代してしまう生育環境の負の部分を社会全体排除、緩和できないものかと。

初等教育課程において、道徳の教科化、評価の点数化が話題になっていますが、
――知らなかったから法的に問題はない――
とされる政治資金規正法、
この方の入院
は道徳的に何点になるのでしょうか。

社会が賢くなるのも難題です。

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