2014年9月15日月曜日

欺瞞

最近、原発の再稼働に絡み”ゼロリスク”という語をよく目にするようになりました。例えば、
分かりにくい原発の安全目標 背景に「ゼロリスク文化」
原発の“ゼロリスク”追求政策は愚の骨頂  「停止リスク」の増幅こそ本当のリスク
工学者が見る大飯原発差し止め判決の誤り - 奈良林直
「大飯原発判決」これだけの誤り - 澤昭裕
なぜ原発だけ「ゼロリスク」を求められるのか
ゼロリスクなど求めていません
 などです。

特に、BLOGOS内を”ゼロリスク検索してみると、池田信夫氏が執筆された多くのエントリが抽出されます。

上記リンクの中、最後のリンク以外は、共通して、
ゼロリスクを求めるな

と主張されています。

これが、以前のエントリで記した、
結果として原発が稼働を続ける限り、短期はともかく超長期のスパンにおいて事故の発生は回避し得ないと考えます。我国の原子力技術開発を担ってきた優秀な科学者、技術者、及び、原発を推進してきた賢い(?)為政者が、このような当然の考えに至らないはずがありません。この考えが誤りであるのか、或は、この考えの先には更なる結論があるのか、是非、有識者層がどのような”合理的”な認識を有しているかを知りたいと願っています。 
の答に相当するものと受け止めています。一定の確率、特に重大事故の発生確率は天文学的に低いかもしれませんが、零ではない確率で発生することへの容認を求めているわけです。

このことを否定するつもりはありません。極当たり前の話で、それ以外の答は有り得るのでしょうか。”みんな”で決めて、負担や危険、責任は将来に先送り、といった正に民主主義の本質を外すことなく象徴しているなぁといった思いです。おそらく、次の重大事故発生時には決定を下した世代は存命ではないでしょうから...

原発を推進したとされる新聞社の社主は既に故人です。本人の意思は確認できませんし、了承も得られません。従って、故人が存命中に下した判断は動かし難い既定事項となってしまっています。

ただ、”ゼロリスクの否定”は素直に支持できる話ではありません。

過去、原発が推進されていた時代、政府、電力事業者、立地自治体、地域住民の間で果たして、ゼロリスクについての共通認識、ゼロリスクを求めないことについて合意があったのか疑問です。”ゼロリスク”、”原発”というキーワードを2011年03月10日までの間グーグル検索してみました。

関連度順、日付順に検索してみたのですが、政府、電力事業者からの、原発に対し”ゼロリスクを求めるな”を重視した情報は見い出せませんでした。2002年の、
「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」
で原発も含めた記述がされている程度でしょうか。

この資料は高速増殖炉もんじゅの事故(1995年)、JCO臨界事故(1999年)後のものですが、こういった事故を受けた後の行政側の姿勢が窺える部分を引用します。真偽は定かではありませんが...


いわゆる「原発震災」を懸念している静岡県の浜岡の住民グループと、当時の科技庁の原子力安全委員(?)との討論会の一場面だ。さっきも書いたように、95年のもんじゅ事故以来、原子力業界も「原子力にもリスクはある」ということを公言するようになってきているわけだが、この討論会でもそうだった。科技庁の専門家曰く、「皆さん、どんなものにもリスクはあるんです。それを認めないことには対話は成り立ちません。」傍聴していた筆者は、「何、今更、寝ぼけたこというとんねん?それこそ運動側がずーっと言ってきたことやないかい」と内心ツッコンでいたら、案の定住民グループから「それこそわれわれが言い続けてきたことであり、『絶対安全だ』と言いつづけてきたのはあんたらじゃないか」というツッコミ。
これが、例えば
「非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、設計ができなくなっちゃうんですよ」
「ちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対造れません」
(2007年 斑目春樹 元原子力安全委員長)
に繋がっていき、リスクがあることを認識しながらも、リスク最小化が図られなかったわけです。

これまで大過なく安全だったことで安全神話に囚われてしまっていることを容易に想像させます。想定できてもそこまでは不要だろう、リスクはあってもコントロールできている(=安全神話)ということかと...

原発の立地地域を決定し、全国に建設を進めていた時代にはリスクのリの字も口にせず、ひたすら”絶対安全”のお題目で危惧を封じ込め、上述のもんじゅとJCOの事故を経て”(安全だから)リスクがあることを認識しろ”と、で、福島事故以降は”ゼロリスクを求めるな”と、原発を巡る空気は変遷してきたのではないでしょうか。

原発を建設する際、果たして、リスクがあること、そしてゼロリスクの達成は適わないことについて誠実な説明が行われ、理解が得られていたとは思えません。

”絶対安全”の語と、いわゆるアメと鞭でなんとなく納得させられてきたというのが実状だったかと憶測しています。

そういった経緯を背景に、原発が建設され、稼働し、過酷な事故が起こってからゼロリスクを求めるなと言われても釈然としないものを感じるわけです。

今更とか、後出しじゃんけんといった印象を拭えません。原発というものが存在する以上、本来あり得ないゼロリスクを、政治的な力で歪曲し絶対安全であるかの如く粉飾していたとみています。当時、そうしなければ原発の建設などとても適わなかったことは理解できますが、だからといって容認されることではありません。

ここで絶対安全というボタンの掛け違いが始まり、事故が起こるまで一人歩きしてしまったと。否定できないまま...原発の必要性を認める科学者であっても絶対安全のお題目に疑問を呈すことは憚られていたのではなかったかと想像します。


むしろ、真実に従順で、合理性に依拠して判断、行動する科学者であっても、金と力はなかりけりですから、絶対安全と粉飾する片棒を担がされていた可能性は否定できません。絶対安全を断言しないまでも印象操作、誤認への誘導があったであろうことは十分考えられます。

以前のエントリで記しましたが、科学者は自身の研究分野を除けば、総じて常識的、保守的だろうという印象があり、であれば、政府方針には協力的とみるのが自然でしょう。

加えて、科学者はあきらめないわけです。問題が生じてもなんとか解決して、前進することを選択します。ですから、非常な困難に直面しても、当事者には中止しようとする自律的な力は生まれ難く、中止の判断も遅れがちになりやすいかと...いや、問題が解決に至ることが望ましいのは勿論で、そういった場合は脚光を浴びるのでしょうが、その影には中止の判断が遅きに失した研究テーマの山があるのでは、と勘ぐっています。

いずれにせよ、リスク≠ゼロという本来の姿を絶対安全へと捻じ曲げてしまうといった、合理的判断に民主主義の力、政治的判断が介入する事例は珍しくはありません。

例えば、いわゆるアベノミクスと称される政策(金融緩和、公共投資、成長戦略)は果たして合理的だったのでしょうか。

開門しても制裁金、開門しなくても国に制裁金が課せられる諫早湾水門の開門に関する矛盾した司法判断は公共事業の著しい非合理性を示す典型かもしれません。

一方、我が国は法治国家のはずなのですが、国の基本原理・原則を定めた法規範である憲法ですら遵守されていない現状にありますし、解釈改憲も容認(?)されています。

政治的思惑による客観的事実や正論の歪曲、違憲、違憲状態の放置がまかり通っている現在、”実は絶対安全ではなかったから、ゼロリスクを求めるな”と尤もらしく宣われても不信感は禁じ得ないわけです。いや、”ゼロリスクを求めるな”は当然であり、これは間違いのないところです。

行政がリスクを管理する力に疑義があるということです。果たして客観性、合理性を損なわない、厳格なリスク管理が所管の政治家や官庁に可能なのでしょうか。

おそらく、事故の発生確率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する許容基準の設定といった、科学的で緻密な予測に基づいて策定されるべき法令やガイドラインでリスク管理が行われるのでしょう。

ここに民主主義的妥協、政治的意図、ポピュリズムが入り込む恐れを排除できないのでは、と考えます。百年、千年、或いはそれ以上の超長期に渡る安全確保のためのリスク管理が当初に設計されたとしても、時間の経過と共にというか、喉元過ぎれば規制や許容基準を緩めようとする力が働き出してくるのは明らかです。

将来の大義名分は、
過去の反省を踏まえ、技術開発が十分に進められた結果、過去に定められた規制や基準は過剰に厳格であり、緩和すべきである。 
福島原発の事故以来、深刻な事故は発生しておらず、その予測技術は十分進歩している。
今日の技術を活用すれば、事故対応は万全である。
といったところでしょうか。

利用手段は、[暫定/特別/激変緩和]措置で、必要条件の十分条件へのすり替えかと...

元々、当初の時点でどこまで緻密で合理的な策定ができるかも疑わしいわけです。科学的に十分とみなせる規制や基準の策定は相当困難である一方、厳しい期限での策定が迫られるはずです。そういった状況下で、例えば再稼働ありきを前提とした政治的意図が介入すれば、緩い規制、甘い基準に偏向してしまいます。

実施可能でかつ当面の事故を回避できる程度に仮(?)策定して、問題は次世代に引き継ぎ、といった意識が生まれてしまうのでは、と憶測します。で、関係者が任を外れるなどで、いつの間にか責任の所在が雲散霧消して安全神話が一人歩きを始めると...

いっそ、不確定な長期に渡る安全確保を関係者間で継代するより、安全が確保されたとして担保できる期間、地域等の責任範囲を最小に限定し、後世に継承(実際には押し付けであり、先送りですが)した方が危機意識が保たれるのかもしれません。

即ち、完全なリスク管理は不可能であることを自覚しておくべきである、ということです。ゼロリスクがあり得ないことと同義です。

上述した、事故の発生率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する法令やガイドラインによるリスク管理に関する論述は容易に目にすることができます。これまで、結論は出ずとも、事故の発生率についての議論はありました。原因として原発の設備機器としての機械的寿命や故障、地震や津波、果ては隕石の落下といった自然災害、或いは、テロや戦争といった人為的攻撃などが言及されています。

で、妥当性はともかく、科学的に推定できる原因の中で、天文学的に低い発生率が明らかな原因に対しては除外しよう、目を瞑ろうという考え方、これが”ゼロリスクを求めるな”の趣旨と捉えています。確かに科学の範囲内に限るなら首肯できない話ではありません。

しかしながら、重大事故に至らしめる大きな要因の一つであるリスク管理そのものも含めて鑑みれば、天文学的に低い発生率が無視し得ない発生率に増幅されてしまう恐れがあるわけです。これが”ゼロリスクを求めるな”に抗う理由です。


既存の科学的知見を用いて算出されたリスクに対し、法令、ガイドライン、マニュアルが策定され、これらを遵守することでリスク管理が行われます。その時点で科学的知見が不十分で、そのことによる算出リスクの不完全性があったとしても、最大限合理性、客観性が熟慮されたものであれば、不完全な部分はやむを得ないと、一定程度容認されているのではないでしょうか。

”ゼロリスクを求めるな”に同意できるのは科学の範囲内に限ってのみということです。

実は、”ゼロリスクを求めるな”に関しより重視すべきはリスク管理と運用であり、ここで重大事故の発生率は増幅されてしまうと考えています。

リスクの算出に当り科学的知見は確かに不十分ですが、科学が完全ではないことは十分知られています。しかしながら、該算出リスクに対して策定された法令、ガイドライン、マニュアルの不完全性は果たして意識されているのでしょうか。更に、そういったリスク管理もどこまで完全に運用されるのか疑問が残っています。

例えば、我国憲法は憲法として問題はないのか、そしてその憲法は完全に遵守されているか、といった話です。交通事故は自動車それ自体より交通法規や運転に原因がある場合が多いのではないか、ということです。

設備、機器といったハードウェアのトラブルより、リスク管理とその運用というソフトウェア部分に由来する不備、欠陥、非合理性の齎す不信感が”ゼロリスクを求めるな”を拒絶せしめていると考えています。

福島原発の事故は津波によるものでしたが、更に言えば、津波に起因する外部電源喪失が原因とされています。ここにリスク管理と運用の不完全性を感じます。安全神話に囚われた状況下、経済性を優先したために安全確実に機能する外部電源を用意しなかった...


正に問題の根幹はハードウェアではなく、システムとその運用にあるわけです。

科学的な部分については必ずしも信頼性が十分でなくとも、そのことが顕在化しています。しかしながら、リスク管理とその運用についてその不完全性は潜在化してしまっており、実はこの不完全性が極めて大きいのではないかと考えています。

地道に突き詰めた科学的な部分の精度、確度を無意味にしてしまうような大きな不完全性が、リスク管理とその運用という人為的部分の根幹に潜在化したままになっているということです。

複数k過酷事故nについて各々の事故発生率をpnとすると、安全な確率Pkは、
Pk= Π (1-pn)
ですが、実際にはリスク管理とその運用も考慮する必要があります。

法令、ガイドライン、マニュアル等のリスク管理システムの不備sn、運用の不完全性cnを加味すれば
Pk = Π (1-pn)(1-sn)(1-cn)
です。

pnが天文学的に小さくとも人為的部分の不完全性sncnによって、信頼できるPkが得られないのではないか、これが”ゼロリスクを求めるな”に対する不信感の根元かと勘ぐっています。

街中を自動車で走っていると、信号のない交差点の近くに愛知県警のパトカーが潜んでいて、一時停止違反の取締りをしているのをしばしば見かけます。何時間の取締りかは存じませんし、その間に何人の違反者が切符を切られているかも知りません。

ただ、一定時間、一台のパトカーと二人の警官を貼り付けさせているわけです。生産性が低いなぁという思いを禁じ得ません。公務なんでその低生産性を指摘する輩は少ないでしょうが...

通信と画像記録技術の進歩と低コスト化が進んだ今日、交差点にカメラを導入して同時多点記録を導入すれば生産性が向上するはずです。


では、何故導入が進まないかと考えれば、やはり不信感が導入を阻んでいるのでしょう。記録された映像が何に利用されるかわからない、改竄されないとも限らない、といった恐れです。

証拠捏造や隠滅、誤認逮捕、別件逮捕、不当勾留、冤罪、情報漏洩、或いは不作為等のキーワードで検索される警察の不祥事は毎日のように見聞します。

こういった事件に端を発する行政に対する不信感と同様の、行政の公正で合理的な行動に対する信頼性の欠如こそが”ゼロリスクを求めるな”を首肯させない根源ではないかと考える次第です。

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