2014年1月16日木曜日

度量

創造と判断が根幹であるホワイトカラーの業務において、該業務の生産性向上を図る際の、生産性評価の曖昧さについて前のエントリで触れました。

引き続きこの閉鎖的で曖昧な評価について記すつもりですが、少し斜め上方に脱線します。

以前引用させて頂いたブログ内のあるエントリの一節です。
数学の計算式と体重計の数字以外に、客観的なものは無く、割れ鍋に閉じ蓋、蓼食う虫も好き好きで、全ては成り立ち、そのお陰で、人類は滅びるどころか、人口の増加を招いている訳で有ります。
私の好きは、貴方の嫌い。
それでイインです。
おじさんは、貴方の好きに文句を言いませんから、貴方も、私の好きに、文句をわざわざ言いに来ないでね
こういった多様な価値観の存在を認め、各々は尊重されるべきであることを示唆する主張は、他にも少なからぬブロガーの方々が展開されています。

等のエントリで容易に知ることができます。

全くもってご尤もな言葉であり、飲食の好みに留まらない幅広い事象において、本来であれば素直に首肯したいところです。

しかしながら、果して見聞する数多の問題に対する様々な価値観を一律、寛容に容認できるかと自問した時、私には許容し難い事案があることを自覚しています。

例えば、最近衆目を集めている防空識別圏の設定を含む国境、領土に纏わる隣国の姿勢、従軍慰安婦問題に代表されるいわゆる歴史認識に関する彼我の差異等、相容れない異なった価値観は厳然と存在します。

卑近な例では、以前のエントリで記したさかもと未明氏乙武洋匡氏の話題、これらのエントリで例示した、電車内へのベビーカー持ち込みや新幹線車内での子供が座る座席についての論争も、その端緒は各々の価値観の相違に依る部分があると捉えています。

多様な価値観が渦巻く中、全てを寛容に受け入れるだけの度量は私にはありません。

直面する事態、問題に対して何らかの解を見出す必要がある場合、収束や解決といった目的を達成するための方策について意思決定を迫られます。その際、各々の価値観の衝突を回避し得ない事例も少なからずあるはずです。(勿論、あえて解決しない、収束させないという判断も一つの選択ではあります)

そういった場に直接に居会わせなくとも、上記論争で特定の意見に違和感を持つことも広義には価値観の衝突が生じていると考えます。

捕鯨禁止を迫る力に反発を抱いたり、パキスタンでのマララさん襲撃事件に代表される、イスラム圏における女性の不当な差別に憤りを感じることも、間接的な価値観の衝突ではないでしょうか。

私自身、互いに相違する考えがある時、その礎となる価値観を理解したいと率直に思っています。ただ、それでも尚、理解の範囲を越えた、受け容れ難い上記のような事例には依然として歩み寄れないままでいます。

斯様に、 
――多様な価値観の存在は認識しているものの、好むと好まざるに拘らず直接的、間接的に価値観の衝突は起こり得、価値観の全てを無批判に容認することはできない――
が私の立場です。

ところで、先述の多様な価値観を容認し尊重しようとする姿勢についてですが、依拠する二つの行動原理があると考えます。

一つは個の自由は尊重されなければならず、例え自分と異なる価値観であっても本質的にそれを侵すべきではない、といった立場です。一方で、実は己れの価値観を固守せんがため、この目的のために対立、摩擦を避ける、といった動機もあるような気がします。

衝突の回避、相互不干渉という点で、両者は見掛け上違いはないかもしれません。ただ、後者には自己の領分への干渉さえ拒められれば、その他は我関せずといった心理も一部窺われます。

何とはなしに想起された彼らが最初共産主義者を攻撃したとき”(ニーメラー)は度を越した妄想でしょうか。



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