2013年10月16日水曜日

行進

引続き蛇足です。


2.思考の停止

先のエントリで引用させて頂いた、

3)ただひたすら「全ての戦争は回避すべき」と思い込む者は、歴史を正しく考察することもできず、正義も同胞も守ることができない。

についてですが、”全ての戦争は回避すべき”に平和行進と同根のものを感じています。

年6月中〜下旬頃、自宅前を平和行進の一団が通り過ぎていきます。行進の数日前には、その年に起こった核に纏わるトピックスを印刷したチラシがポストに投函されます。

――平和行進で生み出されるものは何か――

そのチラシを見ると毎年考えてしまいます。一団はなぜ歩くのでしょうか。核兵器の廃絶を目指しているのか、願掛け、お百度参りに似た行為なのでしょうか。或は、歩くこと、集団で歩く行進という行為が好きなのか。

現住所に居住以来、平和行進を間近で見ているわけですが、その間にもパキスタン、インド、イラン、北朝鮮辺りで問題は頻発してしてきました。

本エントリを書いている丁度今、

――国連共同声明「核の不使用」署名へ 
安倍政権が方針転換(朝日新聞デジタル)――

という記事を見つけたのですが、これが平和行進の成果とも思えません。

この平和行進はある種のデモとみなせますが、果してデモは目的を達成する手段となり得るのでしょうか。例えば、平和行進についてのwebサイトを見ても、その行動がどういった論理で核兵器の廃絶に結びつくのか、理解できないのです。

デモという示威行為は、特定の主義や意見を主張すると共に、その意見を持つ人々が一定数存在していることを示す行為です。で、その行為が目標の達成にどう繋がっていくのでしょうか。

少なくとも共感を呼び、感化する、言い換えれば、扇動できなければ目標との距離は永遠に縮まらないと考えます。最終的、究極の姿として”核なき世界”に異が唱えられることは少ないはずです。核保有国の大統領もノーベル平和賞を受賞されてますし...

少なくとも国内において、核なき世界”が既に社会のほぼ共通した願いであるのは間違いのないところと考えています。 

問題はそ目標に至る目論みの欠如と直面する安全保障上の懸念に対する無策でしょう。行進で核兵器の廃絶を訴えるノボリを見る度、”取り敢えず何かしている”感というか、ある種の無責任さを感じてしまいます。表現が適切ではないかもしれませんが、子供が冷静に駄々を捏ねているかのような印象を拭えません。

これらの問題に解決の兆しが認められない限り、膠着したままの現状が続いていくと考えます。

私の理解が不十分なのでしょうか。であれば、毎年の行進によって核なき世界”にどれだけ近づいたのか、事態はどう好転したのか、或は、目標を達成する手段として行進は最適なのか、是非知りたいところです。

冒頭の”全ての戦争は回避すべき”には平和行進取り敢えず何かしている”感にも似た、澱んだ思考状態を連想させます。

ただこの状態は、当事者にしてみれば案外心地良いものなのかもしれません。

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