2013年10月14日月曜日

浸透

前のエントリの補足というか蛇足です。


1.漫画の功罪


”はだしのゲン”閲覧制限に関する一連の騒動を通じ、漫画というメディアの功罪を改めて実感しました。

絵と台詞で構成される物語で情報を伝達する漫画というメディアは、情報を伝える手法として効果的であると考えます。

私自身、漫画が低俗とみなされ軽視されていた時分から、それなりの位置付けが認められるようになった、なってしまった現在まで読み続けています。

情報それ自体の正当性、品性、信頼性、精度、充実度はともかくとしてですが漫画の読者への伝達力、浸透力は、新聞に代表される文字情報を主としたメディアより明かに優っています。

これは、単に漫画が絵と文字から構成され、伝えられた情報を想像し易いといった理由だけではなく、読者の目を強く意識した編集にも由来しているのではないでしょうか。

典型的な商業誌である漫画は、他の出版物に較べ発行部数に神経を尖らせており、読者目線でいかに理解、共感、支持させるか、即ち、人気を最優先して編集、発行されていると考えます。

読者プレゼントの不正をしてまで読者からの評判を掻き集めようとした秋田書店、そういった姿勢こそ、その証左です。

従って、事実を元にしたと称する漫画であっても、どこまで忠実に事実に即しているかは不透明です。読者からの人気を獲得するために、この根深い体質が事実を歪曲せしめた漫画に改変してしまう可能性容易に想像できます。

真実性を印象づけるため、事実を元にした漫画と標榜していても、果たして真に即した、基づいたとは限らず、創作や編集による省略、誇張、歪曲、捏造は排除し得ません。脚色、或は、演出といった語で表現されるのかもしれませんが...

建前上だけかもしれませんが、中立、公正、客観性を主張する新聞報道ですら偏向性、恣意性が窺われます。そういった姿勢を求める声が少ない漫画では、自ずと読者に理解、共感、支持させるために事実を改変する”行為に対する抵抗、躊躇は小さくなります。

つけ加えれば、漫画という分野は真実性や客観性より作品の独自性、創造性が尊重される一面も有していると思っています。

こういった特性は、中立性、公正性を保持すべく、事実からの乖離を抑止、抑制しようとする力にはなり得ず、むしろ逆方向へと促してしまいます。

作者の主観に支えられている漫画は、積極的、必然的に事実の変歪や捏造を生み出してしまう、と捉えるべきかもしれません。

歪曲や捏造(=脚色や創造)を制限する力が作用せず、又、自律性の弱い漫画というメディアに客観性を求めること自体、本質的に相当難題ではないかと考えます。

漫画のこの特性は、宣伝、印象操作、極端には洗脳の手段として容易に漫画が利用されてしまうことに結びつきます。

真実、中立、公正、客観を装いながら作者側の意図、作意を作品に織り込むことで、読者の無意識下に特定の主義、主張、思想、意見が浸透せしめられてしまいます。論理的で説得力のある、優れた漫画である程、違和感を感じさせず、尤もらしい、自然で、強い摺り込み作用が働きかけてくるわけです。

”美味しんぼ”、”課長 島耕作”に代表される一連のシリーズ、更には”ワンピース”といった人気漫画は上記特性を内包している典型と受け止めています。漫画ではありませんが、昨今衆目を集める、映画”風立ちぬ”もその一例かと...正否はともかくとしてです。

政治的、社会的問題を扱った漫画、食物、料理に代表される蘊蓄、知識を伝える漫画は、読者の知的好奇心を適度に刺激します。こういった漫画では、作品に埋め込まれた意図がより抵抗なく読者に浸透せしめられてしまうのではないでしょうか。

小説、映画と同様に漫画というメディアは、表現の自由、創造性を声高に叫びその尊重を要求してきます。同時に、事実に基づいていることを強調し、あたかもノンフィクションであるかの如く喧伝し誤認へと導く強い力も併存させています。

”はだしのゲン”の例を出すまでもありません。

漫画には読者、特に予断を持たない若年層に対する思想教育、印象操作に利用されかねない強い浸透力があります。しかしながら、それを拒絶する、疑問視する力は極めて弱いものでしかありません。

正対を避け斜に構えるのも、漫画と向き合う一つの姿勢かと考えます。


もう少し蛇足を続けます。

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