2013年5月11日土曜日

進展

ここの所のアベノミクス騒ぎに覆われ、身近なメディアによるいじめに関する報道は少なくなりました。衆目を集めるセンセーショナルな事実、問題解決に向かう進展がないためでしょうか。

メディアが大きく取り上げることはなくなりましたが、一時的なものと考えます。私には依然、この問題が解決に向かっているとは思えず、手詰り状態に陥っているのでは、と憶測しています。


いじめの定義自体には曖昧な部分があるものの、いじめそのものがなくなれば問題解決ではあります。残念ながら、現時点で私は”いじめをなくすことは不可能”といった立場です。ただ、問題解決がいじめ撲滅と等価である、即ち、いじめをなくすことが問題解決の唯一の方策であるとは考えていません。いじめをなくす方策についての検討が不要という訳ではありませんが、優先すべきはいじめによる被害をなくすことに注力すべきでしょう。

勿論、いじめ撲滅を唱わなければならない、或は、撲滅が可能と信じなければならない立場の人々がいることも承知していますが...
 

先の改憲についてのエントリで、法治や遵法意識が優先されるべきであり、これらの価値観はいじめ問題と関連付けられると記しました。憲法違反すら自律的に解消できない姿勢でいじめが撲滅できるのか、ということです。

遵法意識、即ち、”何故法は守らなければならないのか?”と同じく、いじめの加害者、或は、その予備軍に対し、”いじめはしてはいけないことである”と理解、納得させることは果して可能なのでしょうか。 


道徳的、倫理的にではなく、或は、感性に訴えることなく、合理的に理解させる論理を私は持ち合わせていません。以前、”いじめの正当性と道徳教育”といった記事を拝見しました。頷く部分は多々あるものの、やはり理解、納得段階の手前で留まっているように見受けられます。

”なぜいじめはいけないのか”といった問いに対し典型的な回答を幾つか耳にしますが、未だ十分な合理性を満たしているとは思えません


”法によって罰せられるから”や”因果報応”、”己がされて不快な行為を他人するべきではない”、”社会の要請”とか、”公共の福祉に反するから”といったところでしょうが、これら事由がどこまでいじめの抑止力として働くのでしょうか。 



思い浮かんだ事例を二つ程。



麻雀放浪記

読んだのはもう三十年以上前です。

社会に出る前の学生時分の印象として、読後感はとても爽やかといえるものではなく、寂寥感を覚えました。幼い自分の周囲と無頼の世界との間の相当な乖離を感じたのでしょう。   

それはさておき、”なぜいじめはいけないのか”について考えた時、漠然と本書が思い起こされました。詳細な言葉は思い出せなかったため検索してみた所、正しくこの言葉が浮かんだわけではありませんが(他の台詞だったような気もしますが)、

――負けた奴は、裸になる。――

――年を老ったら、博打打ちらしく野たれて死ぬこった。お前さんそういう生き方をしてきたんだろう。――

――指だろうが足だろうが、千切ってどっかへ持っていくがいいや。手前等が力ずくで何をしようと文句は言わねえ。俺だっていかさまをやる人間だ。今まで力で、金を奪って生きてきたんだ。力に泣くのはしょうがねえ。だが、その力に頭を下げることだけはしねえんだ。――

確かにその言葉かと問われても確信はありませんが、こういった趣旨の言葉でした。

年端のいかない生徒、学生の口からこういった言葉を聞くならば愕然とするわけですが、意識の底流にこういった考えが潜んでいる可能性を否定できるのでしょうか。

即ち、”己も傷つけられないために他者を殴らない”の裏となる、”己が責められることも厭わないが、他者をも攻撃する”といった考えを否定し得るか、ということです。自己責任という言葉の下、両者の例は枚挙に暇がありません。

後者で受ける責めは、報復、賠償、罰だったりします。勿論、被る損害と与えたそれは必ずしも等価にはなりません。又、この場合については、結果として社会全体の損失、不利益に繋がっていく恐れはあるかもしれませんが、上記二つの姿勢は意識として対等の関係にあると考えます。


後者は他者に被害を与える行為ですが、それはあくまで行為の結果としてであって、行為の直前まではイーブンの関係です。

私はこれに坑って否定する論拠を見出せないままでいます。
報復、賠償、罰を覚悟し、更には、あわよくば逃げ切ろうという姿勢、換言すれば、開きなおりに対抗する合理的な術はあり得るのでしょうか。

解があるとすれば前の違憲状態も判決が下される前に解消されているのでは、と考えます



スポーツ


反則や罰則に対する捉え方がスポーツの種目で大きな差異があると感じています。ラグビー、サッカー、水球といった選手同士の接触を伴う格闘技型(?)と野球やバレーボール、ゴルフといった非接触のスポーツの違いでしょうか。

例えば、サッカーの試合において、ゴール前で反則してでも得点されるのを阻止する光景は珍しいものではありません。全く以って当たり前に見ることができます。

この行為がペナルティという代償を課せられることを承知の上でなされているのは明らかです。

この時、反則か否かといった判断は審判にのみ委ねられており、審判に反則を指摘されなければ尚好ましい、といった心理もなくはないだろうと憶測します。

 ”ばか正直の飛雄馬”(巨人の星)のような実話は寡聞にして知りません。

実は反射的なものかもしれませんが、こういった行為に至らしめる意識は、スポーツという枠組内のみに留められているものでしょうか。

ある特定のルール下にあるスポーツという場、法を拠り所にして秩序を維持しようとする現実社会の場、構図自体には大きな差異はないものと認識しています。スポーツ社会の中に内包された一部ではありますが、該意識が両者の間で適切に峻別、制御されているのでしょうか。実際には切り分け、切替えは曖昧になっていると感じます。

即ち、現実社会においても、法に対する意識は必ずしも、法を逸脱したら代償を払わなければならない、或は、代償を払わなければならないから逸脱しない、といった姿勢のみで構成されてはいないと推測しています。代償を払えば法を逸脱しても構わない、或は、代償を払う覚悟で逸脱する、といった姿勢も多分にあるものと考えます。

代償と引換に違反、反則が正当化されていると捉えることができます。

スポーツの世界と現実社会を同一視するのは適切ではありませんが、メディアが臨場感やリアリティを観衆に実感させようと垣根を取り払うべく煽っている気もします。 

スポーツの世界と現実社会、法(ルール)に対し同根の意識があると考えます。こういった意識といじめの防止、どのように整合性を図るべきでしょうか。

当事者間、延いては社会全体の不利益を抑えるため、程度しか私には思いつきません。これではいじめ加害者の理解を得て納得させるには理が不十分です。

初等教育課程、家庭教育におけるこういった部分の欠如、不足がいじめに纏わる問題が燻ぶり続ける要因と推測します。

明解な論拠提唱は現在の所、難題であると思います。新たな価値観の創出とまで至らずとも、指針になり得る論理の進捗を期待し、問題解消に向けたなんらかの光明が差し込むことを願います。