2013年1月12日土曜日

共有

先に述べたように、公共の場で乳児が泣く、幼児が騒ぐことによる周囲との摩擦は古今東西、日常の至る所で容易に起こり得る問題であると受け止めています。

件の騒動が話題となったのは、偶々、さかもと氏が雑誌コラムか何かで出来事を公開されたことに依るのでしょう。

これまでも日々、至る所で摩擦の種は生じてきたと推測できます。ただ、多くの場合、旅客機内での乗務員といった、中立な第三者が介在して潤滑油的な役目を果たさなくとも、
 ――保護者の負担感を慮って、
            困った時は相身互いで我慢しようか――
といった、私達が共有してきたであろう、公共の場における暗黙の認識が大きな諍いへと発展するのを未然に抑えてきたのではないでしょうか。

現時点で私自身は、このような認識が漠然とであっても乗客間で共有されているであろうと期待しています。従って、ほとんどの場合、先のエントリで記した機内アナウンスを乗務員の職務とする程の状況ではない、と捉えています。但し、乗務員側の責任において、母親はさかもと氏の苦情からは断固として守られるべきで、責めの声すら母親の耳に入れるべきではなかったという部分は譲れません。

逆に、もし各個人の公共の場に対する暗黙の認識が大きく乖離しているならば、円滑な運航に支障を来たす恐れを排除するという目的で上記アナウンスは職務として規定されるべきでしょう。

個人の価値観が多様化するに伴い、これに基づく認識に大きなずれが生じている場合、乗客各々の認識に判断を委ねることは軋轢の種になりかねません。運航責任者たる乗務員側は、乗客の認識に頼ることなく、積極的に乗客間に介在して運航管理する必要があると考えます。

本質は、1.公共の場に対する認識を私達がどの程度共有しているかです。更には、2.共有の程度は時代や社会と共に変化してきたのか、或は、3.単にメディアを通じて周知が進んだことで見かけ上の変化はあっても、実は従来からの大きな変化はなかったのでは、といった部分です。

残念ながら、私自身、定量的で明解な答を見出せていませんが、各々についてもう少し考えてみます。

(続)

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