2012年11月24日土曜日

幻想

衆院選の騒ぎにすっかり紛れてしまっていますが、先の竹島の帰属に関わる韓国との諍いについて、その解決を国際司法裁判所に委ねようという声があるのを御存知でしょうか。

あまつさえ、中国との尖閣問題の解決も国際司法裁判所に任せてしまおうと...

国際司法の公正性という曖昧な判断基準に過度の期待というか、幻想が抱かれている気がします。

国際司法裁判所の下す判断の公正性は何によって担保されているのか、又、判断如何に依らず私達はその決定を受諾できるのか。更に、該裁判所はどこの機関に属しており、そしてその上部機関の現事務総長はどこの国の出身なのか。上記はそういった状況も念頭に置いた上での提案なのでしょうか。


国際社会の判断、決定の公平性に疑問符がつく事例は枚挙に暇がありません。古くは東京裁判が、ここ最近の記憶に新しい例ではイラクに対する国連決議が挙げられます。オリンピックやサッカーワールドカップの開催地決定、及び、該競技における審判の判定やいわゆる芸術点の採点、或は、ノーベル賞、特に平和賞、文学賞受賞者の選定においても各国の利益衝突や恣意が生じているであろう例を見ます。

理性的、科学的知見を無視し、資源量回復に依らず、未だ事態が好転していない捕鯨も最たる例です。

こういった先例を鑑みれば、竹島や尖閣の帰属問題について国際司法に判断を委ねさえすれば”日本の望む公正な判断”が下されると考えるのは、全くもって自分達に都合の良い、甘い妄想であると言わざるを得ません。

国家間の問題に対し国際機関、国際組織が判断を下す場合、歴史的な正当性、信憑性、公正性はどこまで考慮されるのでしょうか。判断基準はむしろ、如何に国際社会の利益に貢献するか、更に言えば、如何に審理し決議する各国の利に適うかにあると考えます。

かつて、日本は国連の常任理事国入りを求め国際社会に強く働きかけたものの、実現しませんでした。経済援助を含めた支持を得るための多数派工作より加入阻止の動きが勝ったのでしょう。上記国際司法裁判所での係争も同じ構図です。

この時の轍を踏まぬよう、歴史的事実の上に安穏とあぐらをかくことなく、経済援助始め、手段を選ばない活動で国際世論を誘導することが肝要ではないでしょうか。(歴史的事実はあくまでも私達の知る事実です。経済援助は極論すれば買収ですが、それさえ厭わない万難を排する覚悟が必要でしょう。)